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綿づくりにみる東播磨の環境と風土

オクラの花

はじめに

私たちの住むいなみ野は内陸性の気候で昔は綿作りが盛んで、“はりま木綿”の産地として全国にその名を知られていました。 綿は乾燥に強い作物で雨の少ないこの地域でも栽培が容易だったのです。

やがて時代は明治に移り鎖国がとかれ、外国産の綿が輸入されると日本の綿は売れなくなり、 “疎水”という名の水を得ることによって水稲が栽培される稲作地帯へと変わっていきます。

しかし、綿にも種類があり、当時作られていた日本産の綿と外国産の綿には生育上いろいろな違いが見られます。

それはまさに植物の自然環境とその風土への適応であるのです。
私たちの作ったこの冊子が東播磨の自然環境を考える資料のいったんとなれば幸いです。

これから綿について皆さんにお話しましょう。

昔、今のように稲がたくさん作られる前、私たちの住むいなみ野では綿がたくさん作られ、人々の暮らしを支えていました。

綿に用いられる花の種類
タチアオイの花 オクラの花 ムクゲの花
タチアオイ オクラ ムクゲ

綿はあおい科の植物でタチアオイやムクゲ、オクラと同じ仲間で、花もよく似ています。

綿に用いられる花の種子の種類
タチアオイの種子 オクラの種子 ムクゲの種子
タチアオイ オクラ ムクゲ

種によってもその違いがわかります。
外国の綿の種は大きく、日本の綿の種は小さいですね。
よくみると、綿の種は翡翠のような緑色をしています。
これが日本の綿で、茎は赤みを帯びて細く葉も紅葉のような形をしています。
つぼみを包んでいるがくは大きく、横向き、あるいはうつむきかげんで咲き、花びらがフリル状になっています。
雨が多いので花が濡れないように、めしべやおしべを守っているのでしょう。

葉

外国の綿の葉は切れ込みが荒く、楓のような形をしています。
は太く緑色でがっちりして、上を向いて花を咲かせます。
綿がたくさん作られているアメリカでは雨が少なく、濡れる心配が無いのでしょう。

花

綿は私たちの暮らしには無くてはならない大切なものです。
例えば、皆さんが着ているTシャツや下着、怪我をしたときに使う脱脂綿や包帯ふとん綿など綿はいろいろな所で役に立っています。

採集
綿の栽培方法
  1. 排水の良い畑を選ぶ。
  2. 畝を作り、石灰を施し化成肥料を元肥としてよく混ぜておく。
  3. 50センチ間隔に綿の中に入っている種子を3粒ずつ播く。
      (1センチ程度の深さで一昼夜水につけたもの)
  4. 30センチほどに成長したら根本より10センチほど離して化成肥料を追肥として施す。
  5. 虫に食害されるようであればスミチオンを薄めたものを散布する。
  6. 10月中~下旬に収穫する。
葉

日本にはどうして稲が作られているの?

日本には昔、弥生時代よりもっと前、大陸から稲作が伝わり、古くからお米が作られてきました。
稲作は日本の風土と天候に適し、籾は保存も出来ることから、人々は同じ場所に定住することができるようになったのです。

そこに文化が生まれ育ち、今のような日本の文化があるのです。
お米は「文化のお母さん」ともいうべきものです。
日本はモンスーンという季節風が吹いて春・夏・秋・冬の季節がはっきりし、 梅雨があるおかげで高温多雨(多湿)であり、その気候が稲作りにはよくあったのです。

日本が瑞穂の国といわれるのはみずみずしい稲穂が豊かに垂れる国という意味です。
皆さんが食べている美味しいお米は日本の天候・自然をうまく利用したものなのです。

ところで、ドイツはジャガイモが主食、ヨーロッパではパンが主食です。
どうしてだと思いますか?「外国人はご飯よりパンが好きだから?」
「いいえ、とんでもありません。ヨーロッパの寒い国々では稲が育たないのです。」
だから、寒さに強い麦が作られ、酪農が盛んになったのです。

それからチーズやバターを作る技術も生まれました。
つまり、その国の風土や気候によって人々の食生活が支えられているのです。
それは言い換えれば、適地適産ということになります。

水辺のある私たちの住む東播磨、夏には稲の若葉が風と戯れ遊び、秋は金色の稲穂が目にまぶしい豊作を迎える。
お米は私たちの地域の自然と人々の汗によって育まれた宝物です。
池や川があり、そこで作物が豊かに実る。
それは地球温暖化を防ぐ大きなキーワードでもあるのです。

そこで育つ生き物との共生も私たちが守って行かなければならない大切な課題です。
水辺のある私たちの故郷、東播磨の自然環境をこれからもみんなで大切に守っていきましょう。

制作編集  大路敬子・大崎かなえ
発行年月日 平成20年9月